2022年も年の瀬ですね。大変寒くなりました。
日光も雪景色。本日も雪がチラついてました。

外来受診される患者さんの血圧もやや上昇気味です。
あまりにも寒いので、出来るだけ早く帰宅すべく
昼休みを短めに切り上げ、午後の訪問診療を開始しました。
このところ、警察からの連絡も頻繁です。地元で警察医として仕事をしてますが、
昨日、本日と高齢者の遺体検案が続いております。
高齢者施設での看取り、訪問診療での看取りと
最近は死亡診断書、死体検案書を連日発行しております。
そんな中、先週は同級生の看取りを致しました。
小学校から高校まで同級生でした。小学校の2年生の際、
同じクラスになりましたが、高校時代は理系と文系に分かれ
野球やスケート、剣道に夢中の私とは異なり、物静かな人でした。
お寺の息子さんであったのは知ってましたが、家へ遊びに行くといった程の
御付合いはありませんでした。そして、高校卒業後の進路は知りませんでした。
そんな彼が、同じく同級生のケアマネジャーを通して、私の訪問診療を希望、
最期を看取る主治医に指名してくれました。
4年前に亡くなった私の母と同じ病気である【悪性リンパ腫】を8年前に発症。
主治医も同じ医師でした。その主治医から「同級生の先生に診て貰うの?」
と怪訝そうな顔をされた様子でしたが、私を主治医として選んでくれました。
宇都宮から日光の自宅へ戻り、久々の再会を果たしました。
「久し振り~!」のお決まりの挨拶。
互いの過ごした時間の報告、色々と話しました。高校卒業後、
僧侶の父上の反対を押し切り音楽大学へ進学。クラシックの指揮者を
目指したが、父上様の死去に伴い、大学2年で中退し、僧侶としてお家を継承した事。
立派なお家に独身住まい。嫁いだ妹さんが介護に通っている事など。
私がキクイモをライフワークとし、書籍を記している事、書籍を謹呈したり
御高齢の患者さんが寄付してくれた手編みの帽子をプレゼント。
昔話に加え、現在の状況報告を行いました。
流石に数十年経過、お互い年を重ねると面影は多少残るけど、外で会っても気付かないか!
等笑いながら話しました。
退院直後も、夜間に2回ほど悪寒・戦慄出現後、40℃の高熱があり、2度の更衣をする必要があり、
解熱剤を使用してもコントロールが困難でした。麻薬の使用を余儀なくされ、意識朦朧となりながらも
自宅で死にたいという想いを伝えてました。
連日泊りながら介護していた妹さんの御主人の職場職員にコロナ感染者が出てしまい、
施設に一時的に入所避難。週末帰宅していた際、施設でもコロナによるクラスターが発生。
私が嘱託医を務める施設にお願いし、緊急的措置として、ショートステイを利用しました。
その施設から週末一時帰宅した際、「戻りたくない!」と、駄々をこねる様子に皆困惑したりしました。
「自宅での介護が難しい」「家政婦を自費で雇わないとならない」の説明に
「そうする。金に糸目はつけない」と。
一人で自宅で亡くなっていたら、警察検案になってしまう。私が警察とくる話になるが、
自宅周囲に赤色灯を点けたパトカーが沢山集まり、刑事課警察官が沢山来るのはお互いに
不本意なのでは?と説得。
結局、家政婦が見つかるまで、施設に戻ろう!と約束し、施設へ戻りました。
先週土曜日に帰宅予定とし、介護タクシーを予約してましたが、その日に息を引き取りました。
食事摂取量は徐々に低下、口内炎が出来て、食事も話すのもままならぬ状態になっており、
覚悟はしてましたが。
大変辛い病状経過だったと思います。抗ガン治療、免疫治療も行い、手を尽くした結果だけに
やる事は無い!ではありましたが、麻薬を使用し、最期は酸素投与も準備して、痛い・辛い・苦しいを
緩和すべく尽力しましたが、私が出来る事は余りありませんでした。
どんな形でも自宅で看取りを希望していたのだから、叶えられなかったものだろうか?
無力感を感じます。
色々と昔話や面白可笑しく振舞いましたが、大変辛い想いでした。
わずか2か月弱の時間 でしたが、勉強させられた想いもあります。
が、もっと色々・・・。等感じます。
日頃、絶対後悔しない診療を!を心掛けてますが、考えれば
色々反省する事は出てきます。
死亡率は100パーセントです。
例え、医療が進んでも、医師が偉そうなことを言ったり、新薬が開発されても。
それだけに精神的ケア、生きる希望を持てる、死への恐怖をも軽減出来るケアを行っていかないといけません。
同じ事を言っても、表現の仕方によっては、励ましになったり、失望感を抱いたりします。
生きる力になれる様に心掛けていかないといけない!と強く感じます。
- 2022/12/20(火) 22:18:36|
- 日々の診療徒然
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